勝手に偉人紹介③ | 東進ハイスクール練馬校|東京都

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2013年 5月 5日 勝手に偉人紹介③

どうもこんばんは、勝手に偉人紹介の時間です。
前々回更新が4月15日、前回更新が昨日(5月5日)、そして今回更新が今日というアンバランスっぷりですね。
ということで今日は日本史、山岡鉄舟は少し置いておいて(流石に海舟と更新することかぶりすぎていたので…)幕末期の長岡藩総督、河井継之助です!!

 

 

 

 

 

 

 

河井継之助。目で人を圧倒しすぎるとまで人に言わしめた。

①プロフィール
名前:河井継乃助(あだ名は蒼龍窟、自宅近くに松の木が植えられていたことに由来)
生年:1827年~1868年

②経歴
藩官僚であった父を持ち、長岡城下に生まれる。
負けず嫌いな性格が災いし、幼いころにつけられたあらゆる師匠からさじを投げられる。
その後、藩校の崇徳館にて儒学を学び始め、都講の高野松陰の影響で陽明学に傾倒する。
17歳には王陽明に擬して天を祭る儀式を実施、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。

彼はその後江戸に遊学し、佐久間象山や斎藤拙堂のもとで学ぶ。
学ぶと言ってもその様式は独自のもので、気に入った書物を繰り返し読み、書き写すというものであった。

その後藩に帰った彼は官僚として抜擢されるも門閥家老による反発を受けて辞任させられる。
彼は再度遊学を決意、江戸と当時内政者として著名であった山田方谷のもとで学ぶ。
特に山田方谷には内政、経済について多くのことを学んだ。

彼は遊学後再度藩官僚として抜擢され、君主である牧野忠恭が京都所司代に任命されるとその辞任のために大いに活躍した。
さらに忠恭が老中に任命されるとその辞任のために再度活躍するもその中で不祥事を起こし、継之助自身も官僚を辞任する結果となる。

しかしその後彼は内政の責任者として再度登用され、藩政改革に大きな成果を上げる。
そうしたさなか、京では薩長によるクーデターが勃発、新たに生まれた政府は会津追討を目指す。
その中で長岡藩は当時のすべての藩同様に新政府側につくか、会津(幕府)側につくかの選択を迫られる。
だが、継之助の決断は違った。彼は全藩上げての近代化による富国強兵策を取り、いずれにもつかず自立を目指す独立独行路線を採用した。

彼は西欧の商人から多くの武器を購入し、軍の近代化を急いだ。
そしてその強大な軍事力を活かして官軍との会談に臨んだ。
そこに現れたのは当時まだまだ未熟であったのちの男爵岩村高俊であった。
彼は継之助を無能な門閥家老同様に扱い、継之助の武装中立策に全く理解を示さず、彼をぞんざいに扱い、結果として奥羽越列藩同盟(幕府)側へと走らせる結果に終わった。

その後彼は長岡藩全藩をあげての官軍への抵抗を見せる。
しかし長岡城陥落などを経て、また継之助自身も途中で重傷を負ってしまい、戦死してしまう。
長岡藩も官軍に降伏し、戊辰戦争の一幕が過ぎていった。

③河井継乃助の名言
・人の世に処するというものは,苦しいことも嬉しいことも色々あるものだ.その苦しいことと言うものに堪えなければ,忠孝だの,節義だの,国家の経綸だのというた処が到底成し遂げられるものではない.その苦しいことを堪えると言うことは,平生から錬磨をして置かなければ,その場合に限って出来るものではない.
・人間万事,いざ行動しようとすれば,この種の矛盾が群がるように前後左右に取り囲んでくる.大は天下のことから,小は嫁姑のことに至るまですべて矛盾に満ちている.この矛盾に,即決対処できる人間になるのが,俺の学問の道だ
・ひとに頼らず,おのれのみを恃めということさ

 

とういうことで次回は世界史、モンゴル帝国の帝王モンケ=ハンです!お楽しみに!!